下妻懐古録 〜下妻エッセイ〜
 
           

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 多賀谷城跡。多賀谷氏は戦国時代「関東の雄」といわれた武将で、結城四重臣として栄華を誇ったそうだ。最盛時には結城氏からの独立を謀り、その領土は下妻を本拠として関城から水海道北部や豊里、そして岡見氏領土の谷田部や牛久まで配下においた。20万石以上あったと言われている。
 


 余談だが、石下の豊田氏は多賀谷氏に軽く負けているし、城跡(舘跡)も正確に把握されていないので、あの大仰な偽城(石下町民交流センター?バブルの塔とも呼ばれている)建立は笑うしか無い。

 多賀谷氏は北条一族と仲が悪かったようで、あちらこちらで戦闘をくりかえしていたようだ。関東での反北条勢力の代表格であったらしい。駒城、関城、大田城ほか県西地区一帯に数々残る小城跡はこの戦闘の際に双方が築城した前線本部のようなところである。

 隆盛を誇った多賀谷氏だったが、関ケ原の際に石田三成ら反徳川についた為領地を追われ(しかも小山を通過しようとする徳川家康本人の命を狙っている時に謀略がばれたというすごいエピソード)、親戚筋である佐竹氏とともに秋田へ落ち延びた。

 多賀谷氏を失った城は、水戸徳川家の祖となった徳川頼房が6万石を擁して入城したが6年程して水戸に移された。つまりここで水戸に移らなかったら「下妻徳川家」になっていたわけ!である。

 実は水戸街道(現在の6号線)が整備される前は、下総・常陸を行き来する街道として下妻街道というのがあって、江戸中期までは歴然と機能を果たしていたらしい。現在でも東京都葛飾区の一角に下妻街道の始発点が残っている。

 その後しばらくの間幕府直轄地になったり、他の大名の兼務管理地になったりしていたが、後に井上氏が入り幕府より1万石を与えられた(が城には住んでいなかったようで、陣屋あたりに居住していたようだ)。現在下妻市に居住している士族の末裔である方々は、ほとんど井上氏の関係者である。多賀谷氏の関係者は秋田に落ちていったり、討ち死にしたり自殺したりでほとんど残らなかったようだ。ただ嫁に出たり婿に出た士族の末裔は別だが。しかし一万石とは、江戸期の大名は与えられた石高が少ないなあ。

 こういった歴史や情報は学校で全く教わらなかったが、受験のための勉強よりもこちらの方が面白いし、大事なんじゃないか?今の子供はゆとり教育とかで、様々なくだけたカリキュラムを組めるらしいので、是非郷土史を教えてやって欲しい。



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素材 : アイコンと牛飼いの部屋様