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2013年3月3日(日曜日)

桃の節句

カテゴリー: - ricmania @ 03時00分30秒

東海新報の臼井さんからの情報で、下妻図書館にあった「わたしたちの下妻」を閲覧してきました。いやぁ懐かしい。本の1ページ目に小学校3〜4年生の授業のために作られた本だが、付録としてそれ以上の方々に参考になることを載せたとあります。

正式名称は「郷土読本 わたしたちの下妻」初版は昭和43年5月30日、改訂版は昭和47年3月10日で、拙が学校で毎日読んでいたのは改訂版の方でした。本の前半はひらがなと写真が多く(しかも昭和40年頃の下妻市内!)本当に子供向けです。

後半はマニアな郷土史になっています。「徳川頼房は下妻藩主になった際幼少だったので実際は赴任せず、家来が来て収めていた」とか「下妻藩主井上氏は幕府要職で寺社奉行等を代々していたため下妻にはほとんどいなかった」等、目からうろこ!

中学時代にもらったと思い込んでいましたが、実際は小学校の時にもらっていたのかも知れません。うちの子供達にも読ませたい素晴らしい資料です。同世代の下妻市出身の方、この改訂版をまだお持ちでしたら是非譲ってください!

同じ棚に近年発刊された「わたしたちの下妻市」という本がありましたが、統計資料が多く郷土史等はあまり収録されていません。なお、図書館では本の1/2以上をコピーしてはいけないという事なので、後半の郷土史部分だけコピーしてきました。


2013年3月1日(金曜日)

永青文庫

カテゴリー: - ricmania @ 02時21分27秒
今日は会議前に目白にある「永青文庫」に立ち寄りました。さすが熊本細川家のコレクションだけあって、刀や印籠や軸などの美術品のほか、宮本武蔵が書いたダルマ絵や貴重な輸入書籍(それでもほんの一部らしい)等を展示。一番驚いたコレクションは中国の乾隆帝の「玉座」!

目白の一等地とは思えない深い緑と瀟酒な建物も凄さを語る。

http://www.eiseibunko.com/index.html


2013年2月23日(土曜日)

遮光器土偶

カテゴリー: - ricmania @ 02時14分16秒
みんなが知らないすごい事実・・・。大船渡博物館には、なんとあの「遮光器土偶」がある!出土例の少ない三葉虫の化石や遮光器土偶が見れる市立博物館なんてなかなか無いゾ!

遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていることである。また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。大型のものは中が空洞になっている。これは焼く際にひび割れをしないようにするためだと考えられている。by Wikipedia


2012年12月4日(火曜日)

飯田軍蔵墳墓

カテゴリー: - ricmania @ 11時10分56秒

タイヤを替えに筑西(旧下館)に向かう途中、黒子(旧関城)の手前で見逃せない案内杭を発見!「飯田軍蔵墳墓→」。なにぁにぃぃぃ!これは帰りに寄らねば!で、タイヤの入れ替え終了後に、案内を頼りに探し当てました、この墓を!
 

 
飯田軍蔵は江戸時代末期に、筑波の藤田小四郎や水戸藩攘夷派と「天狗党」を組織し、下妻の曹洞宗多宝院に宿泊していた幕府軍を焼き討ちしました。飯田軍蔵は多宝院の檀家だったにも関わらず、菩提寺を完全に焼失させてしまったんです。

その時、多宝院の寺領名主をしていたのは増田次郎でした。増田家は多賀谷家臣として戦国〜江戸時代を通じて代々多賀谷家菩提寺の守護職を任されてきました。焼け出され住職以下僧達は多宝院の沢山ある末寺に分散して移ったようです。

家を焼け出され、明治維新で寺領名主が廃止され職も失った増田治郎夫妻は末寺の林翁寺で暮らしており、焼き討ちから10年後にいきさつは良く判りませんが、住職だった寛禅和尚が増田家の養子となったようです。それが拙の曾祖父です。

増田治郎と寛禅和尚が隠居寺の林翁寺で蓄財を重ね、ようやく明治40年に多宝院は往時の規模には遠く及びませんでしたが再建されました。つまり増田家にとって飯田軍蔵は財産や地位の全てを奪ったテロリストに他なりません。

飯田軍蔵は焼き討ち後、再建の資金として25両(今のレートだと300万円弱?全然足りない)を送ったそうですが、当時下妻に残っていた250件を超える多賀谷家臣団の怒りは強かったようです。が、明治維新によって天狗党は志士として復権しました。

多宝院の檀家さんに自墓地の家はほとんどありませんが、上記のような事があったため、飯田軍蔵の墓地は、多宝院内にある先祖代々の墓所には立てられなかったのだと思います。子孫である拙がこの墓を訪れる機会が偶然とはいえ出来るとは・・・。

http://www.city.chikusei.lg.jp/index.php?code=399
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/ibaraki/kikaku/018/17.htm


2011年5月2日(月曜日)

多賀谷家紋について

カテゴリー: - ricmania @ 02時24分09秒

多賀谷家の家紋の画像を見つけました。

多賀谷宗家 
まず、こちらが多賀谷宗家の家紋です。「木瓜に一文字」という図柄です。武蔵国騎西庄多賀谷郷が発祥地で桓武平氏流野与党の有賀頼基の二男光基を祖とする「平氏」です。結城氏の4家老の1家でしたが、県北の大大名佐竹氏と血縁関係を結び、主家を超える勢力を誇った時期もありました。この宗家(下妻多賀谷)を多賀谷重経から次いだのは佐竹から娘婿に迎えた宣家で、その後すぐに徳川家康から秋田に飛ばされた佐竹氏とともに秋田県能代市に移り、後に岩城氏を名乗って再興します。

多賀谷分家

そして、こちらが多賀谷分家の家紋です。「木瓜にかんざし」という図柄です。画像は旗がなびいて裏返しになっているので、本当は右から左にかんざしが刺さっている形になります。多賀谷重経は血を分けた長男多賀谷三経を廃嫡(跡継ぎにしない)して、宣家を迎えたため、三経は八千代町の太田城に居を構え、結城秀康(徳川家康の息子)の家老として非常に良く活躍し、その子孫は、前橋、福井、川越と主君とともに移動し、川越藩家老として明治を迎えました。ここでは分家としていますが、元々結城藩の家老職の家柄であり直系尊属でもあることから、こちらの多賀谷を本家と呼ぶ方もあります。

さて、ここで以前ご紹介した増田家の家紋「木瓜にこうがい」です。参考:http://pironkeys.main.jp/modules/wordpress/index.php?p=103

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うーん、やはり多賀谷家臣団として、家紋を賜っているというのは間違いなさそうです。


2010年3月10日(水曜日)

茨城空港が明日開港!

カテゴリー: - ricmania @ 01時46分19秒

下妻からだと、下館に出て北関東道に乗って空港北ICに行けば40分で行ける!
いよいよ明日からだ!

ちなみに羽田に行くと、片道1時間半かかるし、交通費も倍かかるので、駐車場横付け無料の茨城空港はありがたい。
当初国内は、神戸便だけだけど、結構需要はあると見ています。

で、しばらくぶりに実家に行って引っ張り出してきましたよ「茨城のむかし話」。
茨城を語るにはまず歴史から。中学校の副読本だった「わたしたちの下妻」がどうしても見つからない。誰かください!
 
読みがたり茨城のむかし話


2007年5月20日(日曜日)

家紋

カテゴリー: - ricmania @ 22時48分38秒

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当家に伝わる家紋「木瓜(もっく)にかんざし」です。多賀谷宗家の家紋が「木瓜に一文字」そして、多賀谷三経家の家紋が「木瓜にこうがい」です。「こうがい」は貴族や武家の女性がしていた豪華なかんざしを指します。が、当家のは普通の「かんざし」です。

おそらく主家である多賀谷氏から下賜されたもので、関が原の乱の後に帰農して下妻に土着した「増田治郎(次郎)兵衛」家で代々使われていたようです。残念ながら天狗党の乱で、多宝院とともに全ての記録が燃やされてしまったのですが、この家紋は代々着物(喪服)に入れられて継承されてきたそうです。いまのところ、他では見たことがない家紋です。

増田治郎(次郎)の名前は、市内の旧家澤部家の古文書等にみえます。

(1)多賀谷諸氏子孫
元禄7年(1694年)徳川綱吉の頃出版
「増田治郎兵衛」として城廻り村(現在の下妻乙地区)居住者として最初の頃に出てくる。

(2)本城八幡宮造営奉加
元文4年(1739年)出版
「治郎兵衛」の名で(この名簿は名字が記載されていない)七文を寄進している。異本では「西町 治郎兵衛」で「志し」を付けたことになっている。

(3)多賀谷殿御廟玉垣造旧臣衆寄附帳
喜永4年(1851年)出版
多賀谷氏墓地整備の寄附名簿、最初の頃に「増田次郎兵衛」で「一金百疋」を寄進したと出ている。大旦那であった澤部氏と同額で、他の旧臣の負担額の2倍程であることが注目される。尚、この書類では世話人6人の1人として澤部氏の横に連座している。これについては直系尊属であり川越藩家老職であった多賀谷経理から旧臣団に礼状が出ている。

(4)多賀谷左近太夫家植320年忌覚
安政5年(1858年)出版
320年忌法要の世話人として「坂本 増田次郎右衛門」名で「一金百疋」を筆頭として納めている。

(5)天狗騒動関連文書
元治元年の天狗騒動の記録
「多宝院 地領名主 次郎兵衛」として被災者の記録に出てくる。当時の寺院は世襲ではなく、大旦那が寺の領地からの年貢米を集め、僧侶達を養っていた。多宝院は幕府軍が本陣を置いていたために焼き討ちにあい、七堂伽藍全て焼失した。よって増田次郎は住居・資産を失ったようである。その後明治維新となり廃藩置県導入の際に地租制度や役人制度も変わり、名主職は廃止されている。仕事も家も無くなった訳で踏んだり蹴ったりでなかったか・・。なお、多宝院が再建されたのは明治40年(1907)である。

(6)多賀谷碑建設関係
現在の多賀谷城跡地に立つ記念碑は、澤部家末裔の山尻の木村氏が主導となって9人の世話人で建立。9人の世話人の中に「下妻町 平民 増田 次郎」として連座。除籍謄本を調べたところ、本人は明治22年(1889年)12月28日に亡くなっているので、明治23年(1890年)2月に寄附「一金 増田 治郎 壱円」と書かれた際には故人である。

なお、「治郎」「次郎」「次郎兵衛」「次郎右衛門」など表記に揺れがありますが(昔の文書では珍しくない)、300年間一貫して下妻城廻り村において「じろう」「じろうべえ」と言えば「ますだじろう」を指していることが判ります。なお、多賀谷碑建立の「増田次郎」は除籍謄本では「次郎」となっています。
戸籍法の上限一杯でとれたこの除籍謄本は我が家の宝物です。


2007年5月15日(火曜日)

ある日の決意

カテゴリー: - ricmania @ 16時07分11秒

070504_1803~0001  砂沼に沈む夕日です。下妻に生まれ育って幸せだと感じるひとときですね!

あることがあって、しばらく熱意を失っていた「下妻史探訪」ですが、子ども達と多賀谷城跡公園に行った際に、「多賀谷の碑」に刻まれた旧家臣団名簿に記載されている、拙の「ひいひい爺さん」の名前を教えました。

すると娘が「ひいひいひいお爺ちゃんすごいね、名前がこんな大きく残ってる」と言いました。それを聞いていたら「やっぱり今のうちに現地踏査を完了させないと一生後悔するなあ」と決意を新たにしたわけです。

またこれから昼間が長くなっていくので、空き時間を見つけてはまたレポートしていこうと思います。ムラのあるサイト更新ですがよろしくお付き合いくださいませ。
  
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うちのご先祖「増田治郎」です。江戸時代は多宝院の地領(寺領)名主(みょうしゅ=庄屋)だったそうですが、廃藩置県と廃仏毀釈の波で職を失ったようです。しかも経営を任されていた多宝院は、天狗騒動で伽藍一式を全て焼かれてしまいましたが、30年後「ひい爺さん(多宝院住職でした)」の代に新しい本堂が建てられました。
 


2007年1月3日(水曜日)

初詣

カテゴリー: - ricmania @ 21時01分33秒

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3日になってようやく初詣に家族で行きました。もちろん町内の下妻神社と市内の大宝神社へです。
いつもは車で行くのですが、三が日は混むので今年は自転車でチャレンジです。
昨年に比べるとかなり暖かい日でした。家族4人で無事おまいりを済ませ、恒例になっているおみくじを引き、これも恒例になっている入り口のお店で甘酒とリンゴ飴を買ってきました。
おみくじは「吉」でした。まあ本厄の今年にしては「普通」の始まりでしょうか。行った行動がそのまま結果に出るというような事が書いてありました。
大晦日に見た夢は「白いホローボディのベースを買う」というものでしたが、元旦、2日の夢は「仕事がらみ」の夢でした。


2007年1月1日(月曜日)

あけましておめでとうございます!

カテゴリー: - ricmania @ 00時41分06秒

昨年中は大変お世話になりました。今年もPironkeysをよろしくお願いします。

さて、昨年は順調に市内の名所旧跡の取材などを進めてきましたが、途中でぱったりと途絶えてしまい気をもまれた方もいらしたかもしれません。

理由は仕事量・出張・イベントが増えたことももちろんですが、精神的に大きなショックがあったこともありました。
実は11月13日に、さらに下妻市の歴史と自分の家系を調べるために「ひいおじいさん」の除籍証明書を取ってみたんですが、それでびっくり!

私の家は多賀谷氏の歴史まで遡れる名字と家紋を継承しており、事実多賀谷家臣として多賀谷城址公園に石碑を建てた家臣団の7人の世話役の一人に「ひいひいおじいさん」と思われる方の名前が刻まれています。

ところが!「ひいおじいさん」の除籍証明書には「新治郡土浦町○○○○○の三男」「下妻町"ひいひいおじいさん"に附籍」「下妻町"ひいひいおばあさん"から分籍」とありました。つまり、うちのひいおじいさんは土浦の○○さんの三男坊で、元は別の名字だったんですね。

なぜ土浦から下妻の当家に入籍し(養子になったのか附籍したのかはよくわかりません)現在の名字を継いだのか?血縁関係があったのか?戸籍の怪しい明治時代初頭の話しですし、土浦の資料が全く手元にないので、土浦系統の家を調べることもできません。ただ、下妻でも当家と同じ系統のこの名字を使っている家は他にありません。よって養子となって家督を継いだものと思われます。

当家の家紋は「木瓜(もっこ)にかんざし」という大変珍しいもので「木瓜(もっこ)に一文字」を家紋としていた多賀谷氏から御賜されたものだと考えられます。ひいひいおじいさんの名前は、戦国時代以降複数の多賀谷家来衆の名簿に載っていることから代々世襲していたようです。

ひいおばあさんは東京の本所の履きもの屋の娘だったそうで、それは幼少時代の親父が直接本人から聞いて知っていました。本所といえば土浦藩の江戸屋敷があったところですから、土浦とやはり何か関係あるのかもしれません(当時は見合い結婚ですからね)。

そんなにショック受けなくてもと思われるかもしれませんが、実は「土浦」というのはかなり微妙なんです。多賀谷氏から見て土浦の小田氏関係は完全な「敵」。後に同じ佐竹系になったとはいえ・・・。うーん土浦や小田の歴史も調べなくては・・・ということで調査フィールドが広くなってしまったんです。そうすると他市町村のいろいろな文献にも多賀谷や下妻の文字が・・・。

今年はそんなジレンマや矛盾を解決しながらコンテンツ充実して行きます!

余談ですが、除籍謄本を貰ってきた日が11月13日。びっくりしたのが「ひいおじいさん」の命日も11月13日だったこと。運命とか縁とかいう目に見えない力を信じざる得ない日でした。


2006年11月26日(日曜日)

小野子観音堂

カテゴリー: - ricmania @ 23時59分59秒

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「小野子の観音様」として地元の方々に大切にされているこの千手観音は、なんと多賀谷下総守基泰の名前が胎内に刻まれているといいます。
基泰は多賀谷祥潜の別名と言われ、祥潜は多賀谷氏が結城四天王として下妻に定住する基礎を作った人で、1555年に菩提寺である曹洞宗龍潜山多宝院を建立しています。

この千手観音は1520年に作製されたと言われていますから、本当に下妻に入ったばかりのころのものでしょう。祥潜のほか多賀谷の家臣の名前が2名彫られています。下妻市にとってとても貴重なものです。

先日亡くなった郷土史家の矢中先生が保存に尽力していたことを思い出します。


2006年11月25日(土曜日)

多賀谷城(下妻城)址公園

カテゴリー: - ricmania @ 00時08分27秒

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下妻本城町にある多賀谷城址公園。ここは昭和32年の都市計画時に、江戸時代は放置されていた城址の周辺を整備して公園化したところで、本丸があった場所です。明治27年に旧家臣団が建立した多賀谷城址の石碑が立つ二段の小山のみは、戦国時代から残る唯一の「本物」の土塁らしいです。

公園整備される前は、周囲の堀は田んぼとガマが生い茂る湿地になっており城址はぼうぼうの山になっていたそうで、下妻市役所はここの整備のために自衛隊に奉仕作業をお願いして、土塁を削り、その土で湿地を生めて駅の東側に街ができるようにしたそうです。
今となってはどうにもなりませんが、駅東がいまいち発展していない現況をみると、その施策は果たして正しかったのか・・・そろそろ評価する時期かもしれませんね。

とはいえ、子供の頃はここの公園でよく遊びましたし、今もウチの子供達がお世話になってますし、城址が結局下妻の人々の憩いの場になっている事は、歴史を伝えるうえでプラスかもしれません。

下妻市役所には都市計画前の状況写真も多数残っているらしいので、是非今後歴史アーカイブスということで、古い記録写真や工事写真をデジタル画像に変換して、図書館などで見せていただきたいものです。というか、そのあたりお手伝いしたいです。市役所と市民が持っている様々な写真や資料を共通の資産としてデジタル化したいですね。アメリカのフィラデルフィア市で画像アーカイブ事業を成功させてますし。

ということで、土類と堀は残っておりませんが、本丸が周囲の湖沼(水)から浮いた島のような状態で存在していた事は安易に想像できます。
周囲に建ったビルや家の屋根が無ければ、堀の対岸にある城山稲荷の土塁やお船山がはっきり見えた事でしょう。

この調査を行っている際にこの旧家臣の石碑に彫られている名称の中から、7人の世話人を発見!しかも、そのうちの一人がうちの先祖である可能性がある人であることに気づきました。

そこから、自分の家系を調べはじめたんですが、それにともなって様々な新事実が判明し、新しい謎が生まれ、そして調査は思わぬ展開になってきました。うーん・・・その内容は正直ショックです。そこはおいおい書いて行きましょう。


2006年11月24日(金曜日)

城山稲荷(2)

カテゴリー: - ricmania @ 16時04分19秒

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下妻第一高等学校横の城山稲荷を正面と境内から取材しました。前回の記事はこちら → 城山稲荷

まず、東北部にある正面入り口です。実はこの稲荷神社は元々東に向いて社があったのですが、最近になって西向きに作り直されました。
その際に、ぐるり周りの石垣も新しくされ寄進者の名が刻まれた石がずらりと立てられました。赤鳥居もその際に作り直されました。

そのため正門から入って突き当たりをUターンするような形で社に行き着くようなレイアウトになりました。
以前はこの入り口を入った正面に社があり、その後ろに土塁があったんですが。

赤鳥居と比較すると土塁が結構な高さであることがわかります。神社自体が高台にあるので、標高の低い常総線の線路から見れば相当に高い位置になります。道路や線路が敷設されているところは、当時は城の堀池であったところですから、まあ当然といえば当然ですが・・・。

みんなでこの土塁を守っていきましょう!


2006年11月23日(木曜日)

井上氏陣屋跡南部

カテゴリー: - ricmania @ 13時28分36秒

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下妻一高から陣屋と旭までの高台は、江戸時代に下妻藩主であった井上氏の屋敷だったところ。下妻一高西側からグラウンド南側を巡る用水路は、陣屋を囲む水堀の名残と聞いている。下妻一高の東側は当時多賀谷城の堀(沼)だったこと(正門付近の土地の起伏を見ると地形的にそれが推察できる)から、周囲を水で囲まれたヒョウタン型の要害の土地であったらしい。 井上氏は幕末まで藩主として居住していたが幕末の天狗騒動の際に、幕府軍の本陣が置かれたため多宝院と共に焼き討ちに遭い、屋敷はことごとく消失したらしく現在は面影すらうかがうことができません。 下妻一高西側から陣屋を抜け、小倉市長宅横を抜ける道は昔堀だったところに城の土塁を削った土を入れて作られたと書籍には記されています。


2006年11月12日(日曜日)

城山稲荷

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分00秒

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子供の頃は「稲荷山神社」と読んでいたんですが、どうも正式名称を「城山神社」というらしいです。名前がもうそれですね!

ここは下妻一高の東北にある稲荷神社ですが、実は戦国時代は多賀谷城の西陣であり、下妻一高敷地から陣屋(地名)一帯が江戸時代の井上氏の陣屋跡であった場所で、この神社はひょうたん型の頭部分の守護社として丑寅の方角に置かれたようです。

何故神社側から写真を撮らず、遠まきに裏山を撮っているかというと、昔は隣に高校の弓道場があって見えなかった裏山の土塁跡が確認できるようになったからです。
まず、高校に上がるところも元々土塁だった周りをコンクリートで固めてあり、その向こうに一段高く土が盛られていて木が生えているのが判ります。

今の陣屋地区に住んでいる方々は皆士族や刀鍛冶の末裔などで、井上氏縁の由緒ある家柄の方ばかりです。そして、この稲荷神社の氏子になっています。

この神社の北側の土地は、今でこそ埋め立てられて空き地になっていますが、30年前はかなり低地のヌカヌカのドブ田で、昔お城の堀だった事がはっきり判る地形でした。いずれ、時代ごとの地図を整備してわかりやすくしたいですね。


2006年11月11日(土曜日)

下妻市役所旧庁舎

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分00秒

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昭和29年の市制施行の際に下妻市庁舎となり、昭和44年に現在の庁舎ができるまで使われていました。
それまで、下妻町の役場は三道地公園(旧郵便局跡地)や、西町林翁寺前などにあったそうです。

私の母は下妻市職員でしたが、就職した際はこの旧庁舎に勤務していたそうです。
この庁舎入り口のところに昔は「羽場パン屋」さんがありまして、おじいちゃんとおばあちゃんが営業されてました。母は若い頃随分お昼を買いに訪れたらしく、お店をやめた後でもおばあちゃんは私に会うたびに「お母さんによろしくね」と声をかけてくれたのを思い出します。

下妻ふるさと博物館がオープンした際に、収蔵されていた古民具や資料は全てそちらに移転したため、現在は栗山地区の公民館になっています。
もう少し手入れをしておけばあと50年は持つと思うんですが、現在の保存状態はあまり良くありません。

さっき、資料を調べていて知ったのですが、城を壊され土塁と森林だけが残っていた多賀谷城址を今の公園に整備したのは昭和40年代初頭なんですね。母に確認したところ「市役所の移転が決まった際に、目の前の多賀谷城址の整備計画が持ち上がって、自衛隊に要請して山を崩してその土で堀を埋めてヌカ地とぼうぼうの山だった多賀谷城址を、今の使える公園に整備したんだよ。」と言いました・・・。

その、草木ぼうぼうで周りが湿地のままの方が遺構保存とか史跡保存とかいう意味では重要だったんだけど、高度成長期ならではの短小軽薄な公園整備しちゃったんだね(泣)。今の駅東の寂しい発展状況を見ると、本当に下妻って先見の明が無いですね・・・。


2006年11月10日(金曜日)

浄土真宗光明寺

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分01秒

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親鸞聖人縁のお寺であると共に、下妻屈指の古刹です。

山門前には親鸞聖人お手植えの菩提樹があります。また広い境内にはいわれのある老木が数本、大事に育てられています。
お寺には多賀谷氏文書や親鸞の絵、そして室町時代に作られた「聖徳太子立像」という県指定文化財の木造が寺宝として保存されています。
http://www.city.shimotsuma.lg.jp/living/shiseki_bunka/shotoku_taishi.html
鐘鼓楼や板塀など大変立派な佇まいです。

親鸞聖人は鎌倉時代の方ですから、既にそのころから下妻に在って、領民の心の安らぎとなってきた重要なところです。


2006年11月9日(木曜日)

小島熊野神社

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分00秒

061107_1532~0001 061107_1533~0001 石段
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小島稲荷山は小学校時代に「前方後円墳」であると聞いたことがあります。しかし、現在の下妻市教育委員会の史跡・文化財リストにはそのような記載はありません。

現地は小島の集落の西端にある安楽寺の山門前の道を南に入っていったところで、車は停める場所も無いので自転車で行ってみました。
この不自然な小山の上には、子供用の遊具のある公園と、稲荷神社と小島地区の公民館が建っています。

私見ですが、ここは元は間違いなく古墳であったものを、南北朝から戦国時代にかけ、この小山の南に広がっていた毛野川上流の沼地からそびえる地の利を生かして、多賀谷城の南方の櫓楼として使用した可能性が高いと思います。

東から小山に登るところには、かなり古い石段がしつらえてあります。南側には山の稜線に沿って小道もあります。山頂西にはさらに土塁があり、その上に稲荷社が鎮座しています。そこから一段低い東側の平らなスペースには、この場所に不釣合いに大きな小島公民館が建っています。

この小山の北側の裾には、かなり古い石造や石碑が並べてあったり、土から顔を覗かせたりしていますが、磨耗が激しく文字などの確認はできませんでした。

ここまで中途半端に破壊されてしまうと史跡認定もされないのでしょうか。多賀谷城や井上陣屋跡も同様ですが、下妻って本当にセンスないです・・・・。


2006年11月8日(水曜日)

牛久のむかしばなしに見る下妻

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分37秒

牛久のむかしばなし「栗林義長」をまず読んでください。(牛久市図書館発行の資料より)



むかし、むかし、根本村(新利根村根本)に忠五郎というやさしい若者がいました。
ある日のこと、土浦で筵(むしろ)を売っての帰り道、女化ヶ原にさしかかると、一人の猟師が眠っている大きな白ぎつねを射ようとしていました。忠五郎が、わざと大きなせきばらいをすると、きつねは驚いて逃げてしまいました。
「ひとの仕事の邪魔をして、もう勘弁できねえ。」と猟師は怒りました。忠五郎は、「どうかこれで勘弁してください。」と筵代全部を出して謝りました。
その夜のことです。忠五郎の家に、若い娘と老人がたずねて来ました。
「私たちは、奥州から鎌倉に行く途中、道に迷って困っています。どうか一晩泊めて下さい。」
忠五郎は、二人を泊めてやることにしました。
翌朝、忠五郎が目をさますと、下男に路銀(お金)を持ち逃げされてしまったと、娘が泣いていました。そこで娘は、忠五郎の家にしばらく居ることになりました。
八重というこの娘は、この世の者とは思われない美しさで気立てもやさしい働き者。やがて、忠五郎の嫁になりました。幸せな家庭に、八年の月日が流れ、鶴、亀次郎、竹松という三人の子にめぐまれました。
  
 
ある秋の日、八重は竹松の添寝をしている中に寝入ってしまいました。
やがて遊びから帰った子供たちがふと見ると、母親に大きな尻尾が出ているではありませんか。
「大変だー、おっ母がきつねになっちゃったあー。」
腰を抜かさんばかりに驚き、父親のところへとんで行きました。
忠五郎が急いで帰ってみると八重の姿はなく、書き置きだけがありました。
「みどり子の母はと問わば 女化の原に泣く泣く伏すと答えよ」と。
忠五郎が三人の子供を連れて、きつねの足跡を追って来ると、森の中に穴があり、そこはあの女化ヶ原でした。
「おっ母あ! 出て来ておくれ。」
涙ながらに呼びかけました。すると、中から「こんな姿になって、もう会うことは出来ません」と声がしました。
「どんな姿でも驚かないから出て来ておくれ。」
「ほんとうに驚かないでくださいね。」と一匹のきつねが穴から飛び出して、子供たちの顔をジッーと見つめ、「私が、おまえたちの守り神になります。」と泣きながら走り去りました。
(この穴は、女化稲荷の北方三百メートルのところにあり、「お穴」として祀られています。)
  
その後、忠五郎は、一生懸命働いて三人の子どもを育てました。末の子の竹松はすぐれた若者となり、都に上って公家に仕えることになりました。
都で妻を迎えた竹松に、逞(たくま)しい男の子が生まれ、名を千代松とつけました。この千代松は、神童と言われるようになり、特に兵学を柳水軒白雲斎に学びました。そして、柳水軒義長という名前をいただきました。その頃は、戦国の時代で、世の中は麻の如く乱れ、戦いが絶えませんでした。
義長が、父の故郷に帰ってみると、そこでは北条氏が佐竹氏と勢力を争っていました。義長は、牛久の城主岡見宗治の武将、柏田の栗林左京亮の門をたたきました。左京亮は、家来と相撲をとらせたり、問答をさせたりして、義長の力を試しましたが、誰もかなう者はありません。
すっかり気に入られて、その家来になりました。
義長は、その後のたびたびの合戦を巧みな策で勝利に導きました。
そして、ますます信頼され、左京亮の婿養子となり、栗林義長と名乗りました。

やがて下妻の多賀谷政経の大軍が攻めて来るという報せがありました。北条氏尭(うじたか)は、武将たちを集めて軍議を開きました。その時、氏尭は岡見宗治に向かって、「そちの家来に栗林義長という者がおろう。その者には、神霊が乗り移っているとか聞いている。これを総大将にしたいと思う。」と言いました。殿様からこれを聞いた義長は、たいへん驚き、一度はことわりましたが、御大将直々の命令に引き受ける決心をしました。
水上の戦いでは負け知らずの多賀谷の水軍です。これに勝つには、かつて柳水軒先生から学んだ火攻めの計しかないと考え、ひそかに戦いの準備をしました。

戦いの前夜、義長は「どうか明日の風向きを教えて下さい。」と神に祈りました。すると、闇の中にボーッときつねのような顔をした老婆が浮かび上がり、「明日の風は南だよ。」と言うとスーッと消えてしまいました。
戦いの日が来ました。
戦場は、水海道と福岡の間の小貝川です。義長は夜明けの前から、味方の水軍を葦の中に潜ませて、敵の来るのを待ち伏せました。多賀谷の水軍は、数百艘(そう)の舟で川面を埋め、鉦(かね)、太鼓をならしながら攻め下って来ました。
義長は風を背にして、合図の狼煙(のろし)を上げさせ一斉に襲いかかりました。火矢を雨のように射かけると、盾板に火がつき、そこへ油壺を投げ込んだので、敵は大混乱に陥りました。

この大勝利で、義長の活躍は関東一円に知れ渡り、北条氏尭公からたくさんの褒美(ほうび)をいただきました。義長は「これも皆の奮戦のお陰だ。」と言って諸将や部下に分け与えましたので、義長の評判はますます高くなりました。
一方、上総、下総地方(今の千葉県)に勢力を張っていた千葉氏は、佐竹氏と示し合わせて、北条方の小田氏、岡見氏らを挟み撃ち(はさみうち)にしようと企んでいました。そこで、義長は大軍を率いて下総地方に攻め入り、佐倉、成田等の北部一帯を平定し、巧みな戦法で敵の大将千葉頼胤(よりたね)を生け捕りにしました。

小田原城主北条氏政公はたいへん喜び、この手柄を天皇に申し上げました。朝廷は栗林義長を従五位下下総守に任命しました。
義長は、戦いが上手なだけではありませんでした。小野川に堰(せき)を作り、用水堀を掘り、堤防を築くなどして、農民を助けました。また、飢饉(ききん)の時には、館の兵糧倉を開いて民衆を救いましたので、仏のようなお館様と慕われました。
義長は、たびたびの合戦で危機を救われ、たくさんの手柄を立てることが出来たのは、おばあさんのお加護であると思い、これからも人々を災いから守り、幸運を祈るために女化ヶ原のお穴近くに稲荷神社を建立しました。
これほどに活躍した義長も、ついには病の床に倒れてしまいました。
「義長、病重し」の報に岡見宗治も枕許にかけつけ、神仏への祈祷(きとう)をしたり、薬湯を飲ませるなどして、手を尽くしましたが病には勝てず、静かに息を引きとりました。天正十五年(一五八七)五十四才でした。岡見家では、手厚く、新地の東林寺に葬りました。
牛久地方に勢力のあった岡見家は、義長の死後まもなく滅びてしまいました。
 




このむかしばなしは地方の民話にしては珍しく時代考証的にも合致しています。
下妻の城主多賀谷政経の時代、牛久は岡見氏が城主で、佐竹氏は茨城県北部一帯に権力を持つ多賀谷氏の親戚です。しかも佐竹氏は金山を多く持っていたことも近年判って来ました。

ここで特筆すべきは、多賀谷が「水軍」で「負け知らず」だったことで、これが当時の県西県南一体の地勢を物語っています。
詳しくは後日、河や湖沼の調査を経てからレポートしますが、この部分を市外の資料で読めた事で、多賀谷に関係した地域一帯の歴史も調べなければならないことを痛感しました。


2006年11月7日(火曜日)

江連用水旧溝

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分49秒

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江連用水旧溝は宗道宗任神社北側の境内裏にあり、明治時代に近代治水事業が行われた際に神社内敷地を開いて分水した際のレンガ造りの構造物が保存されています。江連用水については砂沼や下妻付近の川や湖沼の変遷と合わせて説明しないと良くわからない部分が多いので、もっと詳細に調べてから別にレポートします。
この神社横ん道路は旧294号線で、バイパスができた現在でも交通量が多く、ここを訪れる際は車の置き場所を確保するのが大変です。
http://www.city.shimotsuma.lg.jp/living/suido/amamizu_model.html


2006年11月6日(月曜日)

山尻鹿島神社

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分12秒

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お鹿様の伝説(下記)があるので取材してみました。この神社は拝殿と3つある小社に賽銭箱が無く、寄進をしようと思ってもできませんでした(笑)。残念ながらお鹿様がどこにあるのか判らなかったのですが、入り口の鳥居の脇に社が2つ、拝殿の右側に1つあり、その中のどれかがお鹿様なのかと思って、とりあえず3つとも写真を撮ってみました。
この神社の東方には、川沿いに遺跡の発掘をしている場所があるはずなんですが、暗くなってしまったのでまたの機会に取材を延期です。

【GPS位置情報】
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=%2b36.10.44.05&lon=%2b139.59.47.63&fm=0



むかし、山尻村(今の下妻市山尻)の鹿島神社の境内に、傷をおった一頭の鹿が逃げこんできました。
近くにいた村人たちが、すぐに鹿を取りおさえたのですが、かなりの深手をおっており、まもなく死んでしまいました。
するとそこへとなり村の人たちがやって来て、「その鹿は、おれたちがつかまえようとしてここまで追ってきたんだ。さあ、こっちへわたしてもらおうか。」と、寄りつめました。ところが、山尻の村人たちも「いや、この鹿はここでおれたちがつかまえたものだから、お前たちには絶対にわたせない。」とゆずらず、とうとうけんかになってしまったのです。
そこで、村の名主がでてきて、仲裁(チュウサイ)に入り、「むかしから、鹿は鹿島神社のお使いというではないか。鹿がこの境内(ケイダイ)まで逃げてきたのは、ここにほうむってもらいたかったからにちがいない。そうは思わないか。」と言って、それぞれの村人達をなっとくさせ、けんかをやめさせました。
鹿は、境内の天満宮(テンマングウ)のすみに手厚くほうむられ、「お鹿様」として祭られました。


2006年11月3日(金曜日)

江村稲荷神社

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分19秒

061029_1358~0001.jpg下妻市最北端にある「江村」には、昔江沼という湖沼があったそうです。
その湖沼周辺には沢山の渡しがあり、そこに出入りする人々に信奉された神社仏閣が多数あったようです。

「え歯科医院」のある十字路を西に行った先、関本手前の丘陵地にこの稲荷神社は鎮座しています。
案内板などは何も無いので、その成立等を知る事はできませんでした。祠を覗き込んだら狐の置物が沢山安置されていたので稲荷神社と判りました。今後調べてみたいと思います。

実は江村付近には「ビク様の形見」という伝説があります。ビクというのは比丘つまり僧侶のことですが、比丘尼(尼さん)のことを省略して言う場合にも使われています。

江村神明宮とは神明両社のことかと思いますので、その神官の娘が比丘尼(尼さん)になったという事でしょうか。
古墳とは時代が数世紀ずれていると思いますが、もしかするとこの稲荷神社が位置的にもビク塚なのかもしれません。


むかし、江村(エムラ・上妻地区)に古屋敷という地名があり、古代においてはたくさんの円形古墳が存在したといわれています。それが、20年前には数個になり、今ではそのうちの一つだけが残っており、この古墳をふくめた一帯を「ビク塚」とよんでいます。
むかし、このあたりで「ビク様」とよぶお寺がありました。ビク様は江村神明宮に仕える神官(シンカン)のむすめでした。



[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+36.14.05.91&lon=+139.55.41.28&fm=0
RICMANIA:K.MASUDA


2006年11月2日(木曜日)

石造五輪塔

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分53秒

061029_1433~0001.jpg061029_1433~0002.jpg061029_1433~0003.jpg石造五輪塔は下妻市の指定文化財に2点あり、これは黒駒橋の手前の墓地の中にあるもの。
室町時代の作品と言われている。

[GPS情報URL]
 http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+36.13.12.76&lon=+139.55.27.37&fm=0
RICMANIA:K.MASUDA


2006年11月1日(水曜日)

耳不動尊

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分21秒

061029_1541~0001.jpg061029_1543~0001.jpg下妻北部の「黒駒」に鎮座するお不動様。社歴などは詳しく判らない。
設置されている教育委員会の案内版によると、その昔、川に不動尊が流れてきたのを見つけた隣の集落の人々が(半谷なのか江村なのかわからず、流れてきた理由もわからず)川から引き揚げようとしたが重くて上がらず、それを黒駒の人々が手伝いに行ったところ、なんのことなくすんなりと引き揚げる事ができたので、この地に鎮座させることにしたという起源である。
奉納されたキリを借りて耳にあてると耳の病気を直す効能があるとされ耳不動尊と呼ばれている。
境内には黒駒の集会所などもあり、いつも綺麗に掃除されている。

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+36.13.16.62&lon=+139.56.05.76&fm=0
RICMANIA:K.MASUDA


2006年10月30日(月曜日)

神明両社遺跡

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分34秒

061029_1418~0001.jpg061029_1417~0002.jpg061029_1417~0001.jpg061029_1416~0002.jpg061029_1412~0001.jpg江村にある史跡で、南北朝時代に下妻城主であった多賀谷政経が設置した神社。江村の通りの川田酒店の近くの狭い道を西に入って行き、川を渡った先の丘陵地にあります。
川が流れているあたりは、江沼だった場所だと思いますので、江村の集落からみると対岸に位置する場所だったのではないでしょうか。
神社の北側は広場になっており、子供用の遊具が設置されています。
現在も信奉を集めているらしく、宗教法人として独立した格を持っているようです。

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+36.13.49.12&lon=+139.55.36.47&fm=0
RICMANIA:K.MASUDA


2006年10月21日(土曜日)

浅間塚古墳

カテゴリー: - ricmania @ 19時12分14秒

061004_1139~0001 061004_1140~0001.jpg

[GPS情報URL]
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=+36.12.56.02&lon=+139.55.27.03&fm=0

少し前になりますがホクロの切除手術の後処理(抜糸)に関城の病院に行った帰りに、駒城跡地を撮影してこようと思って、関本から桐ケ瀬に向う農道を走っていると、いかにも古墳っていう茂みを発見!
近づいて行ってみるとやはり古墳でした。「浅間塚(せんげんづか)古墳」という名称で、前方後円墳です。
なんだか嬉しい。 詳細は こちら で説明されています。


2006年9月20日(水曜日)

へぇ〜そうだったんだ〜っていう感動

カテゴリー: - ricmania @ 23時37分07秒

83713114.jpg 素晴らしい本をご紹介します。

 「鬼怒川・小貝川」 川を中心に県西・県南を包括した優良な歴史書・ガイドブックです。

 土木事務所の下館工事事務所で学校や教育機関に無償配布しています。

 市立図書館などにもあると思います。

 一見の価値ありです。今後この本に基づいた調査結果をこのサイトにも反映したいと思います。

 それとサイトのメインプログラムをWordpressに変更しました。また地図機能を強化しました。

 少し重くなってしまったので、今後プログラムの整理とコンテンツの整理をしていきます。


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