下妻懐古録 〜下妻エッセイ〜
 
           

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 下妻は遺跡が多い。けれど、あまりその事で語られることは無い。大宝神社に奉納されている丸木舟ぐらいではないだろうか。

 昔から高台だった坂本付近や相原山、大木、大宝は縄文時代や弥生時代の土器や土師器が多数出土する。俺も子供の頃、農閑期にあちこちの畑にはいつくばって、石斧や矢じり、魚網の重石や土器を採取したものだった。

 黒いゴミ袋に目一杯5枚分くらい土器のかけらを持っていた。珍しい「高杯(たかつき)」のかけらも持っていたし、黒曜石の塊や矢じりも7〜8個持っていた。残念ながら自宅新築の際に行方不明になってしまったが、最近親父が保存していたことが判明。

 なぜ、遺跡が語られないかというと、畑や山の持ち主が発掘されるのを良しとしない為に、何か出てきても教育委員会に報告せずにスコップ等で粉砕してしまうという事が昔から続けられてきた背景があるのです。はい。

 旧R294の敷設工事の際も、多宝院の脇で多数の完全な土器(壺)が出土したが、工事の遅れを恐れた業者が教育委員会に見つかる前に全て割ってしまったという話を聞いたことがある。また警察署の前辺りでも丸木舟が出土したが、わけの判らない作業員達が、たき火のたねに燃やしてしまったという話も聞いた事がある。たぶん本当の話だろう。

 本当に大事なこと。その判断がいつも目先で終わってしまい、先々まで見通せないのが下妻人の特色であり、欠点であると俺は考えている。きちんとした学術調査がなされていれば登呂遺跡以上の観光地になれたかもしれないのに・・・。
 
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素材 : アイコンと牛飼いの部屋様