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2006年11月8日(水曜日)

牛久のむかしばなしに見る下妻

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分37秒

牛久のむかしばなし「栗林義長」をまず読んでください。(牛久市図書館発行の資料より)



むかし、むかし、根本村(新利根村根本)に忠五郎というやさしい若者がいました。
ある日のこと、土浦で筵(むしろ)を売っての帰り道、女化ヶ原にさしかかると、一人の猟師が眠っている大きな白ぎつねを射ようとしていました。忠五郎が、わざと大きなせきばらいをすると、きつねは驚いて逃げてしまいました。
「ひとの仕事の邪魔をして、もう勘弁できねえ。」と猟師は怒りました。忠五郎は、「どうかこれで勘弁してください。」と筵代全部を出して謝りました。
その夜のことです。忠五郎の家に、若い娘と老人がたずねて来ました。
「私たちは、奥州から鎌倉に行く途中、道に迷って困っています。どうか一晩泊めて下さい。」
忠五郎は、二人を泊めてやることにしました。
翌朝、忠五郎が目をさますと、下男に路銀(お金)を持ち逃げされてしまったと、娘が泣いていました。そこで娘は、忠五郎の家にしばらく居ることになりました。
八重というこの娘は、この世の者とは思われない美しさで気立てもやさしい働き者。やがて、忠五郎の嫁になりました。幸せな家庭に、八年の月日が流れ、鶴、亀次郎、竹松という三人の子にめぐまれました。
  
 
ある秋の日、八重は竹松の添寝をしている中に寝入ってしまいました。
やがて遊びから帰った子供たちがふと見ると、母親に大きな尻尾が出ているではありませんか。
「大変だー、おっ母がきつねになっちゃったあー。」
腰を抜かさんばかりに驚き、父親のところへとんで行きました。
忠五郎が急いで帰ってみると八重の姿はなく、書き置きだけがありました。
「みどり子の母はと問わば 女化の原に泣く泣く伏すと答えよ」と。
忠五郎が三人の子供を連れて、きつねの足跡を追って来ると、森の中に穴があり、そこはあの女化ヶ原でした。
「おっ母あ! 出て来ておくれ。」
涙ながらに呼びかけました。すると、中から「こんな姿になって、もう会うことは出来ません」と声がしました。
「どんな姿でも驚かないから出て来ておくれ。」
「ほんとうに驚かないでくださいね。」と一匹のきつねが穴から飛び出して、子供たちの顔をジッーと見つめ、「私が、おまえたちの守り神になります。」と泣きながら走り去りました。
(この穴は、女化稲荷の北方三百メートルのところにあり、「お穴」として祀られています。)
  
その後、忠五郎は、一生懸命働いて三人の子どもを育てました。末の子の竹松はすぐれた若者となり、都に上って公家に仕えることになりました。
都で妻を迎えた竹松に、逞(たくま)しい男の子が生まれ、名を千代松とつけました。この千代松は、神童と言われるようになり、特に兵学を柳水軒白雲斎に学びました。そして、柳水軒義長という名前をいただきました。その頃は、戦国の時代で、世の中は麻の如く乱れ、戦いが絶えませんでした。
義長が、父の故郷に帰ってみると、そこでは北条氏が佐竹氏と勢力を争っていました。義長は、牛久の城主岡見宗治の武将、柏田の栗林左京亮の門をたたきました。左京亮は、家来と相撲をとらせたり、問答をさせたりして、義長の力を試しましたが、誰もかなう者はありません。
すっかり気に入られて、その家来になりました。
義長は、その後のたびたびの合戦を巧みな策で勝利に導きました。
そして、ますます信頼され、左京亮の婿養子となり、栗林義長と名乗りました。

やがて下妻の多賀谷政経の大軍が攻めて来るという報せがありました。北条氏尭(うじたか)は、武将たちを集めて軍議を開きました。その時、氏尭は岡見宗治に向かって、「そちの家来に栗林義長という者がおろう。その者には、神霊が乗り移っているとか聞いている。これを総大将にしたいと思う。」と言いました。殿様からこれを聞いた義長は、たいへん驚き、一度はことわりましたが、御大将直々の命令に引き受ける決心をしました。
水上の戦いでは負け知らずの多賀谷の水軍です。これに勝つには、かつて柳水軒先生から学んだ火攻めの計しかないと考え、ひそかに戦いの準備をしました。

戦いの前夜、義長は「どうか明日の風向きを教えて下さい。」と神に祈りました。すると、闇の中にボーッときつねのような顔をした老婆が浮かび上がり、「明日の風は南だよ。」と言うとスーッと消えてしまいました。
戦いの日が来ました。
戦場は、水海道と福岡の間の小貝川です。義長は夜明けの前から、味方の水軍を葦の中に潜ませて、敵の来るのを待ち伏せました。多賀谷の水軍は、数百艘(そう)の舟で川面を埋め、鉦(かね)、太鼓をならしながら攻め下って来ました。
義長は風を背にして、合図の狼煙(のろし)を上げさせ一斉に襲いかかりました。火矢を雨のように射かけると、盾板に火がつき、そこへ油壺を投げ込んだので、敵は大混乱に陥りました。

この大勝利で、義長の活躍は関東一円に知れ渡り、北条氏尭公からたくさんの褒美(ほうび)をいただきました。義長は「これも皆の奮戦のお陰だ。」と言って諸将や部下に分け与えましたので、義長の評判はますます高くなりました。
一方、上総、下総地方(今の千葉県)に勢力を張っていた千葉氏は、佐竹氏と示し合わせて、北条方の小田氏、岡見氏らを挟み撃ち(はさみうち)にしようと企んでいました。そこで、義長は大軍を率いて下総地方に攻め入り、佐倉、成田等の北部一帯を平定し、巧みな戦法で敵の大将千葉頼胤(よりたね)を生け捕りにしました。

小田原城主北条氏政公はたいへん喜び、この手柄を天皇に申し上げました。朝廷は栗林義長を従五位下下総守に任命しました。
義長は、戦いが上手なだけではありませんでした。小野川に堰(せき)を作り、用水堀を掘り、堤防を築くなどして、農民を助けました。また、飢饉(ききん)の時には、館の兵糧倉を開いて民衆を救いましたので、仏のようなお館様と慕われました。
義長は、たびたびの合戦で危機を救われ、たくさんの手柄を立てることが出来たのは、おばあさんのお加護であると思い、これからも人々を災いから守り、幸運を祈るために女化ヶ原のお穴近くに稲荷神社を建立しました。
これほどに活躍した義長も、ついには病の床に倒れてしまいました。
「義長、病重し」の報に岡見宗治も枕許にかけつけ、神仏への祈祷(きとう)をしたり、薬湯を飲ませるなどして、手を尽くしましたが病には勝てず、静かに息を引きとりました。天正十五年(一五八七)五十四才でした。岡見家では、手厚く、新地の東林寺に葬りました。
牛久地方に勢力のあった岡見家は、義長の死後まもなく滅びてしまいました。
 




このむかしばなしは地方の民話にしては珍しく時代考証的にも合致しています。
下妻の城主多賀谷政経の時代、牛久は岡見氏が城主で、佐竹氏は茨城県北部一帯に権力を持つ多賀谷氏の親戚です。しかも佐竹氏は金山を多く持っていたことも近年判って来ました。

ここで特筆すべきは、多賀谷が「水軍」で「負け知らず」だったことで、これが当時の県西県南一体の地勢を物語っています。
詳しくは後日、河や湖沼の調査を経てからレポートしますが、この部分を市外の資料で読めた事で、多賀谷に関係した地域一帯の歴史も調べなければならないことを痛感しました。


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