飯田軍蔵墳墓
タイヤを替えに筑西(旧下館)に向かう途中、黒子(旧関城)の手前で見逃せない案内杭を発見!「飯田軍蔵墳墓→」。なにぁにぃぃぃ!これは帰りに寄らねば!で、タイヤの入れ替え終了後に、案内を頼りに探し当てました、この墓を!
飯田軍蔵は江戸時代末期に、筑波の藤田小四郎や水戸藩攘夷派と「天狗党」を組織し、下妻の曹洞宗多宝院に宿泊していた幕府軍を焼き討ちしました。飯田軍蔵は多宝院の檀家だったにも関わらず、菩提寺を完全に焼失させてしまったんです。
その時、多宝院の寺領名主をしていたのは増田次郎でした。増田家は多賀谷家臣として戦国〜江戸時代を通じて代々多賀谷家菩提寺の守護職を任されてきました。焼け出され住職以下僧達は多宝院の沢山ある末寺に分散して移ったようです。
家を焼け出され、明治維新で寺領名主が廃止され職も失った増田治郎夫妻は末寺の林翁寺で暮らしており、焼き討ちから10年後にいきさつは良く判りませんが、住職だった寛禅和尚が増田家の養子となったようです。それが拙の曾祖父です。
増田治郎と寛禅和尚が隠居寺の林翁寺で蓄財を重ね、ようやく明治40年に多宝院は往時の規模には遠く及びませんでしたが再建されました。つまり増田家にとって飯田軍蔵は財産や地位の全てを奪ったテロリストに他なりません。
飯田軍蔵は焼き討ち後、再建の資金として25両(今のレートだと300万円弱?全然足りない)を送ったそうですが、当時下妻に残っていた250件を超える多賀谷家臣団の怒りは強かったようです。が、明治維新によって天狗党は志士として復権しました。
多宝院の檀家さんに自墓地の家はほとんどありませんが、上記のような事があったため、飯田軍蔵の墓地は、多宝院内にある先祖代々の墓所には立てられなかったのだと思います。子孫である拙がこの墓を訪れる機会が偶然とはいえ出来るとは・・・。
http://www.city.chikusei.lg.jp/index.php?code=399
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/ibaraki/kikaku/018/17.htm
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