家紋
当家に伝わる家紋「木瓜(もっく)にかんざし」です。多賀谷宗家の家紋が「木瓜に一文字」そして、多賀谷三経家の家紋が「木瓜にこうがい」です。「こうがい」は貴族や武家の女性がしていた豪華なかんざしを指します。が、当家のは普通の「かんざし」です。
おそらく主家である多賀谷氏から下賜されたもので、関が原の乱の後に帰農して下妻に土着した「増田治郎(次郎)兵衛」家で代々使われていたようです。残念ながら天狗党の乱で、多宝院とともに全ての記録が燃やされてしまったのですが、この家紋は代々着物(喪服)に入れられて継承されてきたそうです。いまのところ、他では見たことがない家紋です。
増田治郎(次郎)の名前は、市内の旧家澤部家の古文書等にみえます。
(1)多賀谷諸氏子孫
元禄7年(1694年)徳川綱吉の頃出版
「増田治郎兵衛」として城廻り村(現在の下妻乙地区)居住者として最初の頃に出てくる。
(2)本城八幡宮造営奉加
元文4年(1739年)出版
「治郎兵衛」の名で(この名簿は名字が記載されていない)七文を寄進している。異本では「西町 治郎兵衛」で「志し」を付けたことになっている。
(3)多賀谷殿御廟玉垣造旧臣衆寄附帳
喜永4年(1851年)出版
多賀谷氏墓地整備の寄附名簿、最初の頃に「増田次郎兵衛」で「一金百疋」を寄進したと出ている。大旦那であった澤部氏と同額で、他の旧臣の負担額の2倍程であることが注目される。尚、この書類では世話人6人の1人として澤部氏の横に連座している。これについては直系尊属であり川越藩家老職であった多賀谷経理から旧臣団に礼状が出ている。
(4)多賀谷左近太夫家植320年忌覚
安政5年(1858年)出版
320年忌法要の世話人として「坂本 増田次郎右衛門」名で「一金百疋」を筆頭として納めている。
(5)天狗騒動関連文書
元治元年の天狗騒動の記録
「多宝院 地領名主 次郎兵衛」として被災者の記録に出てくる。当時の寺院は世襲ではなく、大旦那が寺の領地からの年貢米を集め、僧侶達を養っていた。多宝院は幕府軍が本陣を置いていたために焼き討ちにあい、七堂伽藍全て焼失した。よって増田次郎は住居・資産を失ったようである。その後明治維新となり廃藩置県導入の際に地租制度や役人制度も変わり、名主職は廃止されている。仕事も家も無くなった訳で踏んだり蹴ったりでなかったか・・。なお、多宝院が再建されたのは明治40年(1907)である。
(6)多賀谷碑建設関係
現在の多賀谷城跡地に立つ記念碑は、澤部家末裔の山尻の木村氏が主導となって9人の世話人で建立。9人の世話人の中に「下妻町 平民 増田 次郎」として連座。除籍謄本を調べたところ、本人は明治22年(1889年)12月28日に亡くなっているので、明治23年(1890年)2月に寄附「一金 増田 治郎 壱円」と書かれた際には故人である。
なお、「治郎」「次郎」「次郎兵衛」「次郎右衛門」など表記に揺れがありますが(昔の文書では珍しくない)、300年間一貫して下妻城廻り村において「じろう」「じろうべえ」と言えば「ますだじろう」を指していることが判ります。なお、多賀谷碑建立の「増田次郎」は除籍謄本では「次郎」となっています。
戸籍法の上限一杯でとれたこの除籍謄本は我が家の宝物です。
コメント
TrackBack URL : http://pironkeys.main.jp/modules/wordpress/wp-trackback.php/103
コメントの投稿
改行や段落は自動です
URLとメールアドレスは自動的にリンクされますので、<a>タグは不要です。
以下のHTMLタグが使用可能です。<a href="" title="" rel=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <br> <code> <em> <i> <strike> <strong>
良く調べましたね、記録を残して送って大切ですね、増田さんの代になったらお寺を宗教のスーパーにしたら如何でしょうか、キリスト教、からイスラム教まで全部の宗教を同じ敷地内に、誰が来てもOKなんちゃって、きっと歴史に・・・・・、しかし増田家の歴史は凄いですね、天狗党騒動に関わっていたんですね、それも大変な事に、再建したのも凄い、
Comment by ジィージーライダー — 2007年5月22日(火曜日) @ 02時28分28秒