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2006年11月26日(日曜日)

小野子観音堂

カテゴリー: - ricmania @ 23時59分59秒

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「小野子の観音様」として地元の方々に大切にされているこの千手観音は、なんと多賀谷下総守基泰の名前が胎内に刻まれているといいます。
基泰は多賀谷祥潜の別名と言われ、祥潜は多賀谷氏が結城四天王として下妻に定住する基礎を作った人で、1555年に菩提寺である曹洞宗龍潜山多宝院を建立しています。

この千手観音は1520年に作製されたと言われていますから、本当に下妻に入ったばかりのころのものでしょう。祥潜のほか多賀谷の家臣の名前が2名彫られています。下妻市にとってとても貴重なものです。

先日亡くなった郷土史家の矢中先生が保存に尽力していたことを思い出します。


2006年11月25日(土曜日)

多賀谷城(下妻城)址公園

カテゴリー: - ricmania @ 00時08分27秒

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下妻本城町にある多賀谷城址公園。ここは昭和32年の都市計画時に、江戸時代は放置されていた城址の周辺を整備して公園化したところで、本丸があった場所です。明治27年に旧家臣団が建立した多賀谷城址の石碑が立つ二段の小山のみは、戦国時代から残る唯一の「本物」の土塁らしいです。

公園整備される前は、周囲の堀は田んぼとガマが生い茂る湿地になっており城址はぼうぼうの山になっていたそうで、下妻市役所はここの整備のために自衛隊に奉仕作業をお願いして、土塁を削り、その土で湿地を生めて駅の東側に街ができるようにしたそうです。
今となってはどうにもなりませんが、駅東がいまいち発展していない現況をみると、その施策は果たして正しかったのか・・・そろそろ評価する時期かもしれませんね。

とはいえ、子供の頃はここの公園でよく遊びましたし、今もウチの子供達がお世話になってますし、城址が結局下妻の人々の憩いの場になっている事は、歴史を伝えるうえでプラスかもしれません。

下妻市役所には都市計画前の状況写真も多数残っているらしいので、是非今後歴史アーカイブスということで、古い記録写真や工事写真をデジタル画像に変換して、図書館などで見せていただきたいものです。というか、そのあたりお手伝いしたいです。市役所と市民が持っている様々な写真や資料を共通の資産としてデジタル化したいですね。アメリカのフィラデルフィア市で画像アーカイブ事業を成功させてますし。

ということで、土類と堀は残っておりませんが、本丸が周囲の湖沼(水)から浮いた島のような状態で存在していた事は安易に想像できます。
周囲に建ったビルや家の屋根が無ければ、堀の対岸にある城山稲荷の土塁やお船山がはっきり見えた事でしょう。

この調査を行っている際にこの旧家臣の石碑に彫られている名称の中から、7人の世話人を発見!しかも、そのうちの一人がうちの先祖である可能性がある人であることに気づきました。

そこから、自分の家系を調べはじめたんですが、それにともなって様々な新事実が判明し、新しい謎が生まれ、そして調査は思わぬ展開になってきました。うーん・・・その内容は正直ショックです。そこはおいおい書いて行きましょう。


2006年11月24日(金曜日)

城山稲荷(2)

カテゴリー: - ricmania @ 16時04分19秒

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下妻第一高等学校横の城山稲荷を正面と境内から取材しました。前回の記事はこちら → 城山稲荷

まず、東北部にある正面入り口です。実はこの稲荷神社は元々東に向いて社があったのですが、最近になって西向きに作り直されました。
その際に、ぐるり周りの石垣も新しくされ寄進者の名が刻まれた石がずらりと立てられました。赤鳥居もその際に作り直されました。

そのため正門から入って突き当たりをUターンするような形で社に行き着くようなレイアウトになりました。
以前はこの入り口を入った正面に社があり、その後ろに土塁があったんですが。

赤鳥居と比較すると土塁が結構な高さであることがわかります。神社自体が高台にあるので、標高の低い常総線の線路から見れば相当に高い位置になります。道路や線路が敷設されているところは、当時は城の堀池であったところですから、まあ当然といえば当然ですが・・・。

みんなでこの土塁を守っていきましょう!


2006年11月23日(木曜日)

井上氏陣屋跡南部

カテゴリー: - ricmania @ 13時28分36秒

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下妻一高から陣屋と旭までの高台は、江戸時代に下妻藩主であった井上氏の屋敷だったところ。下妻一高西側からグラウンド南側を巡る用水路は、陣屋を囲む水堀の名残と聞いている。下妻一高の東側は当時多賀谷城の堀(沼)だったこと(正門付近の土地の起伏を見ると地形的にそれが推察できる)から、周囲を水で囲まれたヒョウタン型の要害の土地であったらしい。 井上氏は幕末まで藩主として居住していたが幕末の天狗騒動の際に、幕府軍の本陣が置かれたため多宝院と共に焼き討ちに遭い、屋敷はことごとく消失したらしく現在は面影すらうかがうことができません。 下妻一高西側から陣屋を抜け、小倉市長宅横を抜ける道は昔堀だったところに城の土塁を削った土を入れて作られたと書籍には記されています。


2006年11月16日(木曜日)

下妻町道路元標

カテゴリー: - ricmania @ 23時40分50秒

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先週の週末は土日とも仕事でしたので、市内取材が出来ませんでした。そのため記事の更新が滞りました。すいません。
で、家から数十歩歩いた場所にこれが在った事を思い出し、出勤前に撮影しました。
市内中心部三道地北端の西町との境界にあるS字クランクのところにうどん屋「えびす屋」があるのですが、その駐車場のところに立っているコーナーミラーの足元にひっそりと植えられています。
昔この駐車場のところには「会津屋」という老舗旅館がありまして(現在は廃業し、建物は新治のゆうもあ村に移転)往時の三道地付近の栄華を感じたものです。
ものの本によると、下妻は最初新地(上町付近)を切り開き、北の山から木を切って家を建て、木を切った山にまた町を伸ばし、そこが三道地になったそうです。つまり、上町と三道地は下妻で最も早く拓けた町であるということです。
道路元標は、ここが下妻の道路の路程の基準点、地図の真ん中ということです。
近所のお年寄りから聞いたのですが、昔はこのクランクの周りに「役場」「警察」「郵便」が集中していたそうで、裁判所や拘置所はその名残だという事です。


「下妻地図帳」に史跡・旧跡をマッピング

カテゴリー: - ricmania @ 23時29分48秒

今日までに取材した史跡・旧跡の場所を「下妻地図帳」にマッピングしました。
もし記事を読んでその場所に行って見たい方がいらっしゃいましたら参考にされてください。

http://pironkeys.main.jp/modules/mygmap/?cat=3

三道地南

下妻町道路元標から南に向って三道地をみたところ。車通ってないな・・・。


2006年11月12日(日曜日)

城山稲荷

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分00秒

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子供の頃は「稲荷山神社」と読んでいたんですが、どうも正式名称を「城山神社」というらしいです。名前がもうそれですね!

ここは下妻一高の東北にある稲荷神社ですが、実は戦国時代は多賀谷城の西陣であり、下妻一高敷地から陣屋(地名)一帯が江戸時代の井上氏の陣屋跡であった場所で、この神社はひょうたん型の頭部分の守護社として丑寅の方角に置かれたようです。

何故神社側から写真を撮らず、遠まきに裏山を撮っているかというと、昔は隣に高校の弓道場があって見えなかった裏山の土塁跡が確認できるようになったからです。
まず、高校に上がるところも元々土塁だった周りをコンクリートで固めてあり、その向こうに一段高く土が盛られていて木が生えているのが判ります。

今の陣屋地区に住んでいる方々は皆士族や刀鍛冶の末裔などで、井上氏縁の由緒ある家柄の方ばかりです。そして、この稲荷神社の氏子になっています。

この神社の北側の土地は、今でこそ埋め立てられて空き地になっていますが、30年前はかなり低地のヌカヌカのドブ田で、昔お城の堀だった事がはっきり判る地形でした。いずれ、時代ごとの地図を整備してわかりやすくしたいですね。


2006年11月11日(土曜日)

下妻市役所旧庁舎

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分00秒

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昭和29年の市制施行の際に下妻市庁舎となり、昭和44年に現在の庁舎ができるまで使われていました。
それまで、下妻町の役場は三道地公園(旧郵便局跡地)や、西町林翁寺前などにあったそうです。

私の母は下妻市職員でしたが、就職した際はこの旧庁舎に勤務していたそうです。
この庁舎入り口のところに昔は「羽場パン屋」さんがありまして、おじいちゃんとおばあちゃんが営業されてました。母は若い頃随分お昼を買いに訪れたらしく、お店をやめた後でもおばあちゃんは私に会うたびに「お母さんによろしくね」と声をかけてくれたのを思い出します。

下妻ふるさと博物館がオープンした際に、収蔵されていた古民具や資料は全てそちらに移転したため、現在は栗山地区の公民館になっています。
もう少し手入れをしておけばあと50年は持つと思うんですが、現在の保存状態はあまり良くありません。

さっき、資料を調べていて知ったのですが、城を壊され土塁と森林だけが残っていた多賀谷城址を今の公園に整備したのは昭和40年代初頭なんですね。母に確認したところ「市役所の移転が決まった際に、目の前の多賀谷城址の整備計画が持ち上がって、自衛隊に要請して山を崩してその土で堀を埋めてヌカ地とぼうぼうの山だった多賀谷城址を、今の使える公園に整備したんだよ。」と言いました・・・。

その、草木ぼうぼうで周りが湿地のままの方が遺構保存とか史跡保存とかいう意味では重要だったんだけど、高度成長期ならではの短小軽薄な公園整備しちゃったんだね(泣)。今の駅東の寂しい発展状況を見ると、本当に下妻って先見の明が無いですね・・・。


2006年11月10日(金曜日)

浄土真宗光明寺

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分01秒

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親鸞聖人縁のお寺であると共に、下妻屈指の古刹です。

山門前には親鸞聖人お手植えの菩提樹があります。また広い境内にはいわれのある老木が数本、大事に育てられています。
お寺には多賀谷氏文書や親鸞の絵、そして室町時代に作られた「聖徳太子立像」という県指定文化財の木造が寺宝として保存されています。
http://www.city.shimotsuma.lg.jp/living/shiseki_bunka/shotoku_taishi.html
鐘鼓楼や板塀など大変立派な佇まいです。

親鸞聖人は鎌倉時代の方ですから、既にそのころから下妻に在って、領民の心の安らぎとなってきた重要なところです。


2006年11月9日(木曜日)

小島熊野神社

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分00秒

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小島稲荷山は小学校時代に「前方後円墳」であると聞いたことがあります。しかし、現在の下妻市教育委員会の史跡・文化財リストにはそのような記載はありません。

現地は小島の集落の西端にある安楽寺の山門前の道を南に入っていったところで、車は停める場所も無いので自転車で行ってみました。
この不自然な小山の上には、子供用の遊具のある公園と、稲荷神社と小島地区の公民館が建っています。

私見ですが、ここは元は間違いなく古墳であったものを、南北朝から戦国時代にかけ、この小山の南に広がっていた毛野川上流の沼地からそびえる地の利を生かして、多賀谷城の南方の櫓楼として使用した可能性が高いと思います。

東から小山に登るところには、かなり古い石段がしつらえてあります。南側には山の稜線に沿って小道もあります。山頂西にはさらに土塁があり、その上に稲荷社が鎮座しています。そこから一段低い東側の平らなスペースには、この場所に不釣合いに大きな小島公民館が建っています。

この小山の北側の裾には、かなり古い石造や石碑が並べてあったり、土から顔を覗かせたりしていますが、磨耗が激しく文字などの確認はできませんでした。

ここまで中途半端に破壊されてしまうと史跡認定もされないのでしょうか。多賀谷城や井上陣屋跡も同様ですが、下妻って本当にセンスないです・・・・。


2006年11月8日(水曜日)

牛久のむかしばなしに見る下妻

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分37秒

牛久のむかしばなし「栗林義長」をまず読んでください。(牛久市図書館発行の資料より)



むかし、むかし、根本村(新利根村根本)に忠五郎というやさしい若者がいました。
ある日のこと、土浦で筵(むしろ)を売っての帰り道、女化ヶ原にさしかかると、一人の猟師が眠っている大きな白ぎつねを射ようとしていました。忠五郎が、わざと大きなせきばらいをすると、きつねは驚いて逃げてしまいました。
「ひとの仕事の邪魔をして、もう勘弁できねえ。」と猟師は怒りました。忠五郎は、「どうかこれで勘弁してください。」と筵代全部を出して謝りました。
その夜のことです。忠五郎の家に、若い娘と老人がたずねて来ました。
「私たちは、奥州から鎌倉に行く途中、道に迷って困っています。どうか一晩泊めて下さい。」
忠五郎は、二人を泊めてやることにしました。
翌朝、忠五郎が目をさますと、下男に路銀(お金)を持ち逃げされてしまったと、娘が泣いていました。そこで娘は、忠五郎の家にしばらく居ることになりました。
八重というこの娘は、この世の者とは思われない美しさで気立てもやさしい働き者。やがて、忠五郎の嫁になりました。幸せな家庭に、八年の月日が流れ、鶴、亀次郎、竹松という三人の子にめぐまれました。
  
 
ある秋の日、八重は竹松の添寝をしている中に寝入ってしまいました。
やがて遊びから帰った子供たちがふと見ると、母親に大きな尻尾が出ているではありませんか。
「大変だー、おっ母がきつねになっちゃったあー。」
腰を抜かさんばかりに驚き、父親のところへとんで行きました。
忠五郎が急いで帰ってみると八重の姿はなく、書き置きだけがありました。
「みどり子の母はと問わば 女化の原に泣く泣く伏すと答えよ」と。
忠五郎が三人の子供を連れて、きつねの足跡を追って来ると、森の中に穴があり、そこはあの女化ヶ原でした。
「おっ母あ! 出て来ておくれ。」
涙ながらに呼びかけました。すると、中から「こんな姿になって、もう会うことは出来ません」と声がしました。
「どんな姿でも驚かないから出て来ておくれ。」
「ほんとうに驚かないでくださいね。」と一匹のきつねが穴から飛び出して、子供たちの顔をジッーと見つめ、「私が、おまえたちの守り神になります。」と泣きながら走り去りました。
(この穴は、女化稲荷の北方三百メートルのところにあり、「お穴」として祀られています。)
  
その後、忠五郎は、一生懸命働いて三人の子どもを育てました。末の子の竹松はすぐれた若者となり、都に上って公家に仕えることになりました。
都で妻を迎えた竹松に、逞(たくま)しい男の子が生まれ、名を千代松とつけました。この千代松は、神童と言われるようになり、特に兵学を柳水軒白雲斎に学びました。そして、柳水軒義長という名前をいただきました。その頃は、戦国の時代で、世の中は麻の如く乱れ、戦いが絶えませんでした。
義長が、父の故郷に帰ってみると、そこでは北条氏が佐竹氏と勢力を争っていました。義長は、牛久の城主岡見宗治の武将、柏田の栗林左京亮の門をたたきました。左京亮は、家来と相撲をとらせたり、問答をさせたりして、義長の力を試しましたが、誰もかなう者はありません。
すっかり気に入られて、その家来になりました。
義長は、その後のたびたびの合戦を巧みな策で勝利に導きました。
そして、ますます信頼され、左京亮の婿養子となり、栗林義長と名乗りました。

やがて下妻の多賀谷政経の大軍が攻めて来るという報せがありました。北条氏尭(うじたか)は、武将たちを集めて軍議を開きました。その時、氏尭は岡見宗治に向かって、「そちの家来に栗林義長という者がおろう。その者には、神霊が乗り移っているとか聞いている。これを総大将にしたいと思う。」と言いました。殿様からこれを聞いた義長は、たいへん驚き、一度はことわりましたが、御大将直々の命令に引き受ける決心をしました。
水上の戦いでは負け知らずの多賀谷の水軍です。これに勝つには、かつて柳水軒先生から学んだ火攻めの計しかないと考え、ひそかに戦いの準備をしました。

戦いの前夜、義長は「どうか明日の風向きを教えて下さい。」と神に祈りました。すると、闇の中にボーッときつねのような顔をした老婆が浮かび上がり、「明日の風は南だよ。」と言うとスーッと消えてしまいました。
戦いの日が来ました。
戦場は、水海道と福岡の間の小貝川です。義長は夜明けの前から、味方の水軍を葦の中に潜ませて、敵の来るのを待ち伏せました。多賀谷の水軍は、数百艘(そう)の舟で川面を埋め、鉦(かね)、太鼓をならしながら攻め下って来ました。
義長は風を背にして、合図の狼煙(のろし)を上げさせ一斉に襲いかかりました。火矢を雨のように射かけると、盾板に火がつき、そこへ油壺を投げ込んだので、敵は大混乱に陥りました。

この大勝利で、義長の活躍は関東一円に知れ渡り、北条氏尭公からたくさんの褒美(ほうび)をいただきました。義長は「これも皆の奮戦のお陰だ。」と言って諸将や部下に分け与えましたので、義長の評判はますます高くなりました。
一方、上総、下総地方(今の千葉県)に勢力を張っていた千葉氏は、佐竹氏と示し合わせて、北条方の小田氏、岡見氏らを挟み撃ち(はさみうち)にしようと企んでいました。そこで、義長は大軍を率いて下総地方に攻め入り、佐倉、成田等の北部一帯を平定し、巧みな戦法で敵の大将千葉頼胤(よりたね)を生け捕りにしました。

小田原城主北条氏政公はたいへん喜び、この手柄を天皇に申し上げました。朝廷は栗林義長を従五位下下総守に任命しました。
義長は、戦いが上手なだけではありませんでした。小野川に堰(せき)を作り、用水堀を掘り、堤防を築くなどして、農民を助けました。また、飢饉(ききん)の時には、館の兵糧倉を開いて民衆を救いましたので、仏のようなお館様と慕われました。
義長は、たびたびの合戦で危機を救われ、たくさんの手柄を立てることが出来たのは、おばあさんのお加護であると思い、これからも人々を災いから守り、幸運を祈るために女化ヶ原のお穴近くに稲荷神社を建立しました。
これほどに活躍した義長も、ついには病の床に倒れてしまいました。
「義長、病重し」の報に岡見宗治も枕許にかけつけ、神仏への祈祷(きとう)をしたり、薬湯を飲ませるなどして、手を尽くしましたが病には勝てず、静かに息を引きとりました。天正十五年(一五八七)五十四才でした。岡見家では、手厚く、新地の東林寺に葬りました。
牛久地方に勢力のあった岡見家は、義長の死後まもなく滅びてしまいました。
 




このむかしばなしは地方の民話にしては珍しく時代考証的にも合致しています。
下妻の城主多賀谷政経の時代、牛久は岡見氏が城主で、佐竹氏は茨城県北部一帯に権力を持つ多賀谷氏の親戚です。しかも佐竹氏は金山を多く持っていたことも近年判って来ました。

ここで特筆すべきは、多賀谷が「水軍」で「負け知らず」だったことで、これが当時の県西県南一体の地勢を物語っています。
詳しくは後日、河や湖沼の調査を経てからレポートしますが、この部分を市外の資料で読めた事で、多賀谷に関係した地域一帯の歴史も調べなければならないことを痛感しました。


2006年11月7日(火曜日)

江連用水旧溝

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分49秒

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江連用水旧溝は宗道宗任神社北側の境内裏にあり、明治時代に近代治水事業が行われた際に神社内敷地を開いて分水した際のレンガ造りの構造物が保存されています。江連用水については砂沼や下妻付近の川や湖沼の変遷と合わせて説明しないと良くわからない部分が多いので、もっと詳細に調べてから別にレポートします。
この神社横ん道路は旧294号線で、バイパスができた現在でも交通量が多く、ここを訪れる際は車の置き場所を確保するのが大変です。
http://www.city.shimotsuma.lg.jp/living/suido/amamizu_model.html


2006年11月6日(月曜日)

山尻鹿島神社

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分12秒

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お鹿様の伝説(下記)があるので取材してみました。この神社は拝殿と3つある小社に賽銭箱が無く、寄進をしようと思ってもできませんでした(笑)。残念ながらお鹿様がどこにあるのか判らなかったのですが、入り口の鳥居の脇に社が2つ、拝殿の右側に1つあり、その中のどれかがお鹿様なのかと思って、とりあえず3つとも写真を撮ってみました。
この神社の東方には、川沿いに遺跡の発掘をしている場所があるはずなんですが、暗くなってしまったのでまたの機会に取材を延期です。

【GPS位置情報】
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=%2b36.10.44.05&lon=%2b139.59.47.63&fm=0



むかし、山尻村(今の下妻市山尻)の鹿島神社の境内に、傷をおった一頭の鹿が逃げこんできました。
近くにいた村人たちが、すぐに鹿を取りおさえたのですが、かなりの深手をおっており、まもなく死んでしまいました。
するとそこへとなり村の人たちがやって来て、「その鹿は、おれたちがつかまえようとしてここまで追ってきたんだ。さあ、こっちへわたしてもらおうか。」と、寄りつめました。ところが、山尻の村人たちも「いや、この鹿はここでおれたちがつかまえたものだから、お前たちには絶対にわたせない。」とゆずらず、とうとうけんかになってしまったのです。
そこで、村の名主がでてきて、仲裁(チュウサイ)に入り、「むかしから、鹿は鹿島神社のお使いというではないか。鹿がこの境内(ケイダイ)まで逃げてきたのは、ここにほうむってもらいたかったからにちがいない。そうは思わないか。」と言って、それぞれの村人達をなっとくさせ、けんかをやめさせました。
鹿は、境内の天満宮(テンマングウ)のすみに手厚くほうむられ、「お鹿様」として祭られました。


2006年11月5日(日曜日)

小島草庵跡

カテゴリー: - ricmania @ 01時01分50秒

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浄土真宗の開祖、親鸞上人が滞在していた草庵跡です。下妻市と親鸞上人は縁が深く、下妻小学校脇の光明寺さんには、親鸞上人お手植えの木などもあります。
このあたりは、親鸞の時代(鎌倉時代)には鬼怒川(毛乃川)の氾濫区域にもあたり、一面はガマの穂の生い茂る湿地だったと思われます。
ものの本によると常陸国下妻の小島に居するとあるので、このあたりはまだ下総でなかった事がわかります。毛乃川の南側は下総だったと考えられていますので、ここは結構重要です。この草庵は旧川道よりも北にあったことになりますので。
場所は地元の民でないとわからないようなところなので、以下のGPSマップを参考にしてください。

【GPS情報】
http://walk.eznavi.jp/map/?datum=0&unit=0&lat=%2b36.10.26.52&lon=%2b139.58.19.35&fm=0


2006年11月4日(土曜日)

貴重な経験

カテゴリー: - ricmania @ 00時04分18秒

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11月2日に出張で藤沢市に行きました。17:30に仕事が終わると同時に藤沢駅に駆け込み、参加予定イベント開催地の秋葉原に向うため東海道線に。
いつもツイていないのがこれまでの人生なんですが、このときは信じられないくらいラッキーで、改札を通るとすぐに「東京」行きの「快速」が滑り込んできました!これなら18:20には秋葉原の会場に行ける!いつになく好調♪ :mrgreen:

が、大船に到着し発車の時刻が過ぎても電車のドアが閉まりません。車内がざわめき始めた頃放送が・・・
「京浜東北線の線路内におきまして人身事故が発生したため、この電車は発車を見合わせております。お急ぎの方は横須賀線に乗り換えていただけますようお願いいたします・・・。なお、発車の見込みはいまのところ全く立っておりません。くりかえします・・・」
その後15分の間に同様の放送が数回・・・。これ以上時間がかかるようだとイベントが終わってしまう。仕方が無く横須賀線へ。。。 8-O

が、東京方面行きは20分以上待たないと来ない!そこで、すぐに乗れる湘南ライナーで新宿方面に向かい、大崎で山手線に乗り換えるコースで行く事に・・・。 :idea:

大崎駅に着くと、なにやら顔を赤くした人々が湘南ライナーに向って押し寄せてきた。どうしたの? :roll:そこに放送が
「えー、ただいま鶯谷〜上野間の線路内に人が立ち入ったため、当社社員が確保に向っています。そのため山手線内回り、外回りともに運転を停止しております。お客様にはご迷惑をおかけし大変申し訳ございません・・・」
ってオイオイここもかい。それからしばらく待っても相変わらず動く気配なし。このままではイベントが終わってしまう。。。

で、埼京線で新宿まで行き、中央線か総武線で秋葉原に向うコースに再修正!
いそいそと埼京線ホームへ。・・行けない・・人が多すぎて動かない。そこに放送が・・
「これ以上埼京線ホームに人が入ると電車が運行できなくなる可能性があります!」 :shock:

埼京線に乗るのは諦め、また山手線に戻ると
「え〜、先ほど鶯谷〜上野間で立ち入った人は確保されましたので、安全確認中です。まもなく発車できる見込みです」 
広がる安堵の笑い・・・ が、すぐに「ただいま別のお客様が電車から線路に降りたという報告が入り、ただいま当社の社員が状況を確認中です!申し訳ございませんが・・・」の放送が流れ、電車の中には落胆のため息と、怒りの唸りが響く。。。 :evil:

しばらくイライラ待っているとようやく
「お待たせいたしました。安全性が確保されましたので山手線の運行を再開します。」
おーやっと動くかー、でももうイベント間に合わないなあ。と思ったのも本当につかの間!
「品川駅で電車に荷物をはさんでしまったお客様が出たので、もうしばらくお待ちください・・・」
って!でも今回は1分程度で「再開します・・・」 :cool:

なんだかんだで秋葉原に着いたのは20:20を過ぎた頃で予定よりも2時間も多くかかってしまいました。イベントですがあと10分で終わりでしたので完全に諦めました。ぎゅうぎゅう詰めの電車に立ちっぱなしで疲労困憊してしまったので、そのままTXに乗り帰宅しました。

3日はゆっくり起きて午前中子供達とのんびり過ごし、午後から市民体育館にお姉ちゃんの絵が飾られているので観に行って、車のオイルを交換して、ビデオを2本観ました。下妻歩きの続きは明日に順延。体壊しちゃいますからね。 :P


2006年11月3日(金曜日)

江村稲荷神社

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分19秒

061029_1358~0001.jpg下妻市最北端にある「江村」には、昔江沼という湖沼があったそうです。
その湖沼周辺には沢山の渡しがあり、そこに出入りする人々に信奉された神社仏閣が多数あったようです。

「え歯科医院」のある十字路を西に行った先、関本手前の丘陵地にこの稲荷神社は鎮座しています。
案内板などは何も無いので、その成立等を知る事はできませんでした。祠を覗き込んだら狐の置物が沢山安置されていたので稲荷神社と判りました。今後調べてみたいと思います。

実は江村付近には「ビク様の形見」という伝説があります。ビクというのは比丘つまり僧侶のことですが、比丘尼(尼さん)のことを省略して言う場合にも使われています。

江村神明宮とは神明両社のことかと思いますので、その神官の娘が比丘尼(尼さん)になったという事でしょうか。
古墳とは時代が数世紀ずれていると思いますが、もしかするとこの稲荷神社が位置的にもビク塚なのかもしれません。


むかし、江村(エムラ・上妻地区)に古屋敷という地名があり、古代においてはたくさんの円形古墳が存在したといわれています。それが、20年前には数個になり、今ではそのうちの一つだけが残っており、この古墳をふくめた一帯を「ビク塚」とよんでいます。
むかし、このあたりで「ビク様」とよぶお寺がありました。ビク様は江村神明宮に仕える神官(シンカン)のむすめでした。



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2006年11月2日(木曜日)

石造五輪塔

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分53秒

061029_1433~0001.jpg061029_1433~0002.jpg061029_1433~0003.jpg石造五輪塔は下妻市の指定文化財に2点あり、これは黒駒橋の手前の墓地の中にあるもの。
室町時代の作品と言われている。

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2006年11月1日(水曜日)

耳不動尊

カテゴリー: - ricmania @ 00時00分21秒

061029_1541~0001.jpg061029_1543~0001.jpg下妻北部の「黒駒」に鎮座するお不動様。社歴などは詳しく判らない。
設置されている教育委員会の案内版によると、その昔、川に不動尊が流れてきたのを見つけた隣の集落の人々が(半谷なのか江村なのかわからず、流れてきた理由もわからず)川から引き揚げようとしたが重くて上がらず、それを黒駒の人々が手伝いに行ったところ、なんのことなくすんなりと引き揚げる事ができたので、この地に鎮座させることにしたという起源である。
奉納されたキリを借りて耳にあてると耳の病気を直す効能があるとされ耳不動尊と呼ばれている。
境内には黒駒の集会所などもあり、いつも綺麗に掃除されている。

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