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茨城県の県西部にある小さな地方都市です。

 歴史は古く、戦国時代から城下町として、明治時代には観光地として、大正時代には製糸業や茶業の町として、昭和初期には娯楽の町として栄えてきました。

 もともとは「下津間」「下津真」などと表し、湖沼・河川にかこまれ島のように波間に浮いているような土地であったと伝えられています。なるほど市内からは縄文時代や弥生時代の遺跡が発見され、丸太舟等の考古学的発見がされています。

参考HP → http://homepage1.nifty.com/s-kaze/news/news46.html

 古くその成立をさかのぼると、平安時代には常陸平氏宗家の支配する新治郡「下妻(下津真)庄」「川郷庄」などの表記で文献に登場します。石下(石毛)に平将門、明野に平国香が座していた事を考えると、この水利の地は平家の荘園政策の重要地点であった事に間違いないでしょう。

 鎌倉時代に入ると常陸平氏である佐竹氏が県北部で猛威を奮いますが、同じ一門である多気家(つくば市北条)の分家である下妻氏がこの地域を治めるようになります。しかし南北朝の時代までには平氏系下妻氏は衰退します。その後小山氏系下妻氏(多気氏系とは全く別)が大宝八幡宮付近に居しますが、南北朝のころに衰退します。

 かわって、室町後期から戦国時代終焉までこの地域を治めていたのは、結城氏の4大重臣の1家である多賀谷氏です。結城氏とともに織田信長や豊臣秀吉に支え、結城氏は結城地区一帯を、多賀谷氏は下妻33郷を与えられました。

 その後、多賀谷氏は対北条一族との間に数々の武功を積み重ね、ついには対北条勢力の関東での旗手となりました。最も力があった時期は、北は下館、西は結城南部、南は牛久・谷田部、東はつくば北条あたりまでを縄張りとし、20万石の大豪族でした。

 県西地区では、この当時の出先城や武家屋敷の遺構が数々のこされています。多賀谷氏がこの地に築いた下妻城は、まわりを沼や湖や川にはさまれて浮島のようになった要害の平城で、難攻不落と言われていたそうです。

 戦国時代当時の下妻市の地形を再現した模型が、下妻ふるさと博物館で展示されています。難攻不落ぶりが偲ばれます。

 しかし、多賀谷氏の栄華は長続きしませんでした。時はまさしく関ヶ原の合戦前後、石田三成らに組した多賀谷氏・佐竹氏の親族コンビは、小山を通って北進する予定の「徳川家康」を待ち伏せして討つという謀略を企てます。



 それが決行前に発覚したうえ、関ヶ原の合戦でも負けてしまいました。下妻市内で留守番をしていた親族や家来たちは「もはやこれまで」と自害したり、実際に徳川方に捕らえられたり、殺されたりして散々になりました。その後、佐竹氏が外様として秋田に飛ばされると、多賀谷氏も一緒に秋田へ遷移し、そちらで小城(檜山城)を与えられました。

 多賀谷氏が去ったこの城には、徳川家康の十一男である徳川頼房が6万石を与えられて入りました。で、この頼房と言う人。水戸徳川家の始祖なんですね。この人がこの後水戸に移る事を命じられて赴き、水戸徳川家を起こした訳です。例の水戸光国の父親です。

 何故そんなに偉い人が入ってきたか。それは、多賀谷軍が鉄砲1000丁、軍船1000艘という地方豪族にはありえない巨大な戦力と豊富な軍資金や勇猛な戦士を有していた事、鬼怒川(毛野川)、小貝川、大宝沼、騰波ノ江、平沼、江沼など当時の交通機関として最も重要な水運の利が多い地であった事、バックに控えている親戚佐竹氏が県北の金鉱山、銅高山、石炭などで徳川幕府も恐れる金持ちだった事があげられます。陸路でも水戸街道が整備される前は「下妻街道」というのがあり、それが下総と常陸の国を鎌倉や江戸をつないでいた要路だったんですよね。

 そのため、6年かかって下妻を平定した頼房は、今度は本丸の県北部を押さえるために水戸に移るわけですね。水戸が小さいながらも御三家なのは、その佐竹氏が保有していた抱負な鉱物資源と財産、そして地元に多く残る親戚や家来達を服従させる目的があったようなんです。佐竹氏は平安時代から領主・地頭・守護などとして長きに渡り実権を掌握してきた一族なので、地元の佐竹びいきを押さえることは並大抵では無かったと思います。
 
 で、その後幕府の直轄地になったり、大名の兼務地になったりしたんですが、とうとう井上氏が一万石で下妻に入りました。そして明治まで行くんですね。この時は一国一城という制度になっておりますので下妻城は廃城となっていて、井上氏は現在の陣屋付近(現下妻に第一高等学校敷地〜陣屋地区〜旭地区周辺)居宅を構えてこの地を治めました。

 居宅といっても、広大な敷地を持つ旧多賀谷城西郭曲輪ですから、1万石といえどもさすが藩主です。井上氏は後継に恵まれず養子を迎えながら14代に渡り下妻藩主としてこの地を納めました。なお井上氏は譜代大名です。

 余談ですが、水戸藩と下妻藩というのはその後もいろいろ関係があって、江戸末期の「天狗党の乱」は旧水戸藩の若い志士がふがいない幕府に牙を向いたわけですが、幕府軍のテロ征圧部隊が下妻藩に本拠を置いていたためにとばっちりを受けた井上亭と多宝院が焼き討ちされています。

 このように下妻は平安の頃は貴族の荘園、鎌倉〜戦国期は北関東の覇権の要所、江戸時代以降は幕府の要地として、明治期以降は水戸・土浦に次ぐ茨城三番目の都市(何故結城や古河が入らなかったのか不思議ですが)として栄えてきました。

 ところが、いつも時代の流れに乗りそこねるのがこの町の特色でありまして、明治後期〜大正前期に製糸業が盛んな時にはオートメーション化に乗り遅れ(乗っていれば富岡製糸場以上の規模であったと伝えられる)、大正期には茶業の生産拡大に乗り遅れ(一時はあの山本山が扱 うほどの銘茶を出荷していた)、水戸線の敷設予定地に入っていながら「鶏が卵を生まなくなってしまう!」という現在では 考えられない理由で乗り入れを拒否し、その主権を下館市に奪われる基礎を築いてしまったのでした。

 一応、昭和40年代前半までは茨城第3の都市として、また「砂沼に映る逆さ筑波」「砂沼の大桜」「映画館」「割烹」「宿場街」を擁する観光地として、栄えてきたんですが、その後日立市、水海道市、古河市、下館市などにどんどん覇権をとられ衰退してきました(笑)。最近では、その下館市や古河市も結城市に覇権を握られはじめているような・・・。 

 そして、過去の栄華の名残として、中心部に城跡と地方裁判所・家庭裁判所の支庁と拘置所が残っています。

 東には筑波山を望んで小貝川が流れ、西には鬼怒川が流れ、北には遠く日光山脈を望み、中心部には砂沼を擁しており風光明媚で利水が良い肥沃な土地柄です。

 幹線道路は国道125号線と国道294号線が交差し、県西部の流通のポイントとなっています。また、関東鉄道常総線が南北に走り、昔から下妻の人々の生活を支えてきました。

 一時下館市(現筑西市)やつくば市にすっかり主導権を奪われ、衰退の一途を辿っておりましたが、最近294号バイパスの開通にともない大型店舗の進出や125号線の拡張工事等でにわかに活気づいてきました。

 また、小貝川のフラワーフェスティバル等県内外にまで知れ渡る催し物が開催されるようになった他、花火大会や砂沼フェスティバル、桜まつり、お盆の千人踊り等、市役所と商工会が協力して頑張っています。多賀谷武者行列も新たに企画されました。
 


 さらに、最近になって地ビールの生産を観光の目玉として第三セクターを興し、そこが温泉を掘りあてました。そして地ビールを飲みながら温泉につかれる施設が完成しました!その名も「ビアスパーク下妻」です。結構盛況みたいですよ。

 まあ、田舎ではありますが土地も安いし、山・川・沼が揃ってるし、東京が近いし、鉄道も通ってるし、車の置場所にも困らないし、ショッピングセンターも沢山あるし、住みやすいところです。

 またまた、最近国道294号線バイパス沿いに「道の駅しもつま」がオープンし、市立図書館、ふるさと博物館(郷土資料館)が完成しました。

 2004年には「下妻物語」の小説と映画が大ヒットし、一挙に全国区の名前になりました。

 2006年1月1日に、隣の千代川村を吸収合併し、新生下妻市となりました。
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素材 : アイコンと牛飼いの部屋様