昨年中は大変お世話になりました。今年もPironkeysをよろしくお願いします。
さて、昨年は順調に市内の名所旧跡の取材などを進めてきましたが、途中でぱったりと途絶えてしまい気をもまれた方もいらしたかもしれません。
理由は仕事量・出張・イベントが増えたことももちろんですが、精神的に大きなショックがあったこともありました。
実は11月13日に、さらに下妻市の歴史と自分の家系を調べるために「ひいおじいさん」の除籍証明書を取ってみたんですが、それでびっくり!
私の家は多賀谷氏の歴史まで遡れる名字と家紋を継承しており、事実多賀谷家臣として多賀谷城址公園に石碑を建てた家臣団の7人の世話役の一人に「ひいひいおじいさん」と思われる方の名前が刻まれています。
ところが!「ひいおじいさん」の除籍証明書には「新治郡土浦町○○○○○の三男」「下妻町"ひいひいおじいさん"に附籍」「下妻町"ひいひいおばあさん"から分籍」とありました。つまり、うちのひいおじいさんは土浦の○○さんの三男坊で、元は別の名字だったんですね。
なぜ土浦から下妻の当家に入籍し(養子になったのか附籍したのかはよくわかりません)現在の名字を継いだのか?血縁関係があったのか?戸籍の怪しい明治時代初頭の話しですし、土浦の資料が全く手元にないので、土浦系統の家を調べることもできません。ただ、下妻でも当家と同じ系統のこの名字を使っている家は他にありません。よって養子となって家督を継いだものと思われます。
当家の家紋は「木瓜(もっこ)にかんざし」という大変珍しいもので「木瓜(もっこ)に一文字」を家紋としていた多賀谷氏から御賜されたものだと考えられます。ひいひいおじいさんの名前は、戦国時代以降複数の多賀谷家来衆の名簿に載っていることから代々世襲していたようです。
ひいおばあさんは東京の本所の履きもの屋の娘だったそうで、それは幼少時代の親父が直接本人から聞いて知っていました。本所といえば土浦藩の江戸屋敷があったところですから、土浦とやはり何か関係あるのかもしれません(当時は見合い結婚ですからね)。
そんなにショック受けなくてもと思われるかもしれませんが、実は「土浦」というのはかなり微妙なんです。多賀谷氏から見て土浦の小田氏関係は完全な「敵」。後に同じ佐竹系になったとはいえ・・・。うーん土浦や小田の歴史も調べなくては・・・ということで調査フィールドが広くなってしまったんです。そうすると他市町村のいろいろな文献にも多賀谷や下妻の文字が・・・。
今年はそんなジレンマや矛盾を解決しながらコンテンツ充実して行きます!
余談ですが、除籍謄本を貰ってきた日が11月13日。びっくりしたのが「ひいおじいさん」の命日も11月13日だったこと。運命とか縁とかいう目に見えない力を信じざる得ない日でした。